2017/05/10

天下のRAKU FAMILY

 楽焼の、世界での知名度の高さには驚く
特に欧州なんかの陶器のギャラリーを覗くと、"RAKU"と頻繁に目にする
恥ずかしいのだが
私の陶芸の知識の無さには、自分でも愕然とする
だから、感想がお粗末すぎて、あきれられそうだが…
 
MOMATで開催中の"茶碗の中の宇宙 樂家一子相伝の芸術"を観てきた

樂家の系譜と銘品の展示
 
 
樂家"Raku family"と聞くと、
なんとなくCorleone familyっぽい響がある
(...勝手なイメージです。本当にすみません)
 
お茶(千利休)と樂家は、芸術というよりも、時の権力者絡みの歴史の印象が強く
また、その2つはあまりに価値のあり方などが特殊で、
何だか、絶大な力を持つ別次元の存在に感じているせいかもしれない


京都の方が広告センスが良いな

千利休と初代・樂長次郎がともに、
茶の湯のために作った、茶碗のための焼き物が楽焼の発端といわれ
樂家は、450年かけて、ひたすら茶の湯の茶碗をつくり続けている
かなり特殊だと思う
 
 
美しさって感覚が、整っているものという判断だけだったら、
物事は少々残酷だが単純なのだと思う


しかし、利休に洗脳されている日本人の血には脈々と、
侘び寂びの美意識が刷り込みされている気がする
(サブリミナル的な感じで)
 
なぜか、こんな歪んでちっぽけな黒ずんだ高台のよれた茶碗に見入ってしまうし
触れてみたいなと思って、想像してガラスの前で持っている感覚をイメージしたりしていた
完全に、はたから見たら怪しい人です

初代 長次郎 黒樂茶碗 銘 大黒(おおぐろ)

しかし、会場が暗すぎる…
特に、長次郎の展示室が特に暗すぎて、
実際の色と雰囲気がつかみにくい
 
450年続いている一子相伝(しかも男系継承)の芸術とか、
それはすでに忍者の秘伝レベルである
 
 
相伝といえど、それぞれの代により特徴があるので、
惹かれないものは、その作品すべてが、全く惹かれないけど
惹かれるものは、どの角度でも見ていたくなる
 
 
たぶん、利休以降の茶道はもちろんだけれど、
樂の美意識は、仏教哲学、老荘思想、禅などが色濃く反映されている


初代 長次郎 黒樂茶碗 銘 面影

小さな空間の中で、限られたもので見立て
茶碗の中に、宇宙を見る
もう、哲学以外の何ものでもない

その東洋的な感覚や思考もまた、西洋では神秘的に見えてウケるのかもしれない 

 
現当主、15代吉左衛門さんの彫刻的な作品が一番多く展示されており
初代の長次郎さんのと対照に置かれていたりする
そして、次期16代は、私と同い年だった
樂家の看板の重責を考えると、空恐ろしく、私なら、無理だ…
押し潰されて逃げるだろうな
 

こちらが、京都国立近代美術館

こちらが、東京国立近代美術館

両チラシとも、
上が初代・長次郎の茶盌(大黒)
下が15代・吉左衛門の茶盌
吉左衛門さんの茶盌が、京都と東京で違うのが好みが出ていて面白い

長次郎さんのは、うまく言えないが音が吸い込まれる感じで、静寂
吉左衛門さんのは、絵画・彫刻的で、躍動

未だに感覚でしかものを見ることができないので
その先(奥)を見れるようにならないとな
10年前からの私の課題である…
 
 


余談だが、
茶碗などの、"わん"という字を"盌"と書くことがあるが、
この字を見るたびに、"怨"(うらむ)を思い出す
下が、皿か心かの違いなのだけど
盌と書いてある茶碗には、怨念が入っている気がする
調べたら、「夗」の成り立ちは、人が腰を曲げて膝まづいて拝んでいる人の姿だそう。
曲げて押し込めるという意味があるそうで、即ち「曲がっている」ことを意味する
 
ネットスラングだと"orz"ということかな
 
皿が曲がれば、わん"になり
心が曲がれば、うらみ"になる
でも、盌と怨の間にはもっと深い関係がある気がしてしまうのは、
私のひねくれた性格のせいか…
茶盌を巡ってドロドロした利権とか、莫大なお金が動いてそうとか…考えてしまう
あ、四谷怪談の怨み"は、盌み"と書けそうだな…
 
 
そういえば、
どっかで見たことあるな、知り合いだったかな…と、
会場で何度かすれ違った人がいたのだけれど、はなちゃんだった
たしかに、こうゆうのとか好きそうだしね


私にとっては、面白い展示だったけど、
欧米人にとっては、面白いのかな?…と、
会場で、何人か旅行者をみかけたけれど、
つまらなそうな人とものすごい熱心にみている人(少数)と対照的だった

そして、アメリカとロシアからの凱旋展らしいが…
たしかに、吉左衛門さんの作品は、欧米に向いているかもな

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